セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 心理・精神 』

ジョニー・ウィアー選手と糸井重里さんの対談

今年2月、カナダで行われたバンクーバー冬季オリンピックで、とても魅了されたスケーターがいました。アメリカのジョニー・ウィアー選手です。特に、そのフリープログラムは感動的でした。技術と芸術性の高さを併せ持つ、魅力的な世界を創りだして見せてくれました。

そんなジョニーが糸井重里さんと対談をしました。二人の話の内容がステキです。二人を包むオフィスの雰囲気もいい感じ。詳細はこちらを→「ほぼ日刊イトイ新聞」
写真もいっぱいありますよ。+動画も。

(「ジョニー」って呼び捨てなのに、糸井さんには「さん」付け・・・。ジョニー、ごめん!)

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フィギュアスケートはぼくの表現であり、
芸術であり、絵であり、ファッションであり、
ぼくのすべて、ぼくの言葉なんです。
ぼくはそこで魂から伝えます。
氷から離れたとき、どちらかというと
ぼくは心(ハート)によって行動します。
ぼくにとって、魂と心は、違うものです。
魂は、生まれてからずっと自分の奥にあって、
死ぬとき最後にそれを感じるようなもの。
ハートは、「その人らしさ」をつくっている。
顔だったり、個性だったり、生きる力だったり。

(糸井)
「あのなかで、あなたを批判する、 こんな発言が出てきますよね。『彼は、私たちのコミュニティを代表していない』って。でも、誰もなにかのコミュニティを代表することなんて、ほんとはできない。それを誰よりも表現しているあなたが、みんなの前に立っている。それがぼくはすばらしいなと思ったんです」

ぼくが代表できるのは
「ジョニー・ウィアー」だけ。
誰かにについていくことには興味がなくて、
自分がついていきたいなと思うのは、
自分の魂とハートだけです。
ぼくにはそれで十分。
誰かに受け入れてほしいとも思わない。
I don’t represent any community because I represent Johnny Weir. I have no interest in following anyone. I follow myself. I follow my heart and soul, and that’s enough for me. I don’ feel I need to be accepted by anyone.

それぞれの人たちがいて、
それぞれのコミュニティがあるってことを
認め合って、尊重し合うような
世界になってほしいなと思います。
There are different communities and different people. I ask the world to accept and respect that.

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古い体質のスケート界やメディアから、差別的で容赦ない攻撃にさらされても、子ども達に「差別に負けず、個性を生かし、自分らしく生きよう」とのメッセージを、静かに、キッパリと送り続けるジョニーは、芯の強さと美しさを持っていると思う。今季も、一団と磨きのかかった素晴らしいパフォーマンスを期待したいなあと思います。

選挙戦、立候補者のオーラ

随分ご無沙汰してしまいました。あれよあれよと月日は過ぎて、学校では早くも夏休み目前、という時期になってしまいました。ジメジメの梅雨空が続いていますが、こんな時期は何となくだるかったりということもあるので、体調管理に気を遣わねばと思っているところです。皆さんは、お変わりありませんか?

ところで先日、ターミナル駅の改札を出たところで、参院選立候補者の街頭演説に出くわしました。ノボリバタを立てて、応援演説のスピーカーが元気な声を張り上げる中、日焼けした精悍な雰囲気の男性候補者が、聴衆と次々と握手をしていました。

急いでいた私は、候補者を囲む人垣とぶつからないように横からすり抜けようとしたのですが、移動しながら握手している候補者と、たまたま私の進路が合致してしまい、すり抜けようとした私の目の前に、突然候補者が握手しそうな姿勢でこちらに振り向いたので、大いにビックリしました。

なんせ、アチラは選挙戦の真っ最中、エネルギッシュな雰囲気が満ちあふれています。「本人の〇〇です!!(握手)」「〇〇本人です(握手)」と次々に握手、握手。その勢いでこちらに振り向くと、<立候補者オーラ全開!>です。もう、握手の態勢に入っている。

(え?あなたどなた?主義主張も存じあげませんし、別に、握手はいいんですけど・・・。)と、握手の手を取られそうになり、私が一瞬戸惑ったそのとき、候補者氏は目の前の私を透明人間のごとく見過ごして、私の左後方へスーッと歩を進め、「やあー、△△さん!お久しぶりー!良く来てくれましたあ・・・」と大きな声で話しかけつつ、握手をしていました。馴染みの方だったのでしょう。短い会話が弾んでいるようでした。

私はおかげで、ホッ!安心して人垣を抜けることができました。それにしても、候補者氏はどこかでお見かけしたような・・・。う~ん、どこでだったかな?

帰宅後、運動員から受けとったチラシを見て、納得。かつてテレビで評論や解説をしていたOさんだと判明しました。テレビで見たときは、理路整然、クールな印象の方でしたが、さすがに選挙戦の最中、候補者本人の醸し出す雰囲気は熱かったです。

今まで何人もの選挙の候補者を間近で見ていますが、今回のように、突然目の前に候補者が現れたことはなかったので、不意をつかれて、今まで以上に人間の醸し出す雰囲気やエネルギーの持つ威力みたいなものを強く印象づけられました。

これは何も、選挙の立候補者だけに限ったことではないのだと思います。私たち誰もが同じように、その時その場で、エネルギーがアップしたり、ダウンしたりしているのだろうと思います。そしてその分、周りの人に与える印象も、その時々でかなり変化していて、時には人を圧倒するようなオーラを発揮したりもしているのでしょう。

選挙の立候補者が、周囲の協力を得て、自分の良さやアピールポイントを多面的に引き出し、それを自信にしてさらにオーラを発揮するように、私たち一般人も、自分の良さを率直に、恥ずかしがらずにアピールできたら、さぞステキだろうなあと思いました。きっとその時は、かのO氏に負けず劣らずのオーラが漂っていることでしょうね。

Aさんの思い出

だいぶ以前のことですが、某所で、ある若い女性のカウンセリングを担当したことがありました。仮にAさんとします。Aさんは精神科に通院しながら、専門学校に通っている日々でした。相談日によって担当カウンセラーが入れ替わるシステムだったので、私は部分的な関わりでしかなく、数回カウンセリングでお話を聴かせていただいただけでした。

しかし、Aさんについては忘れられない思い出があります。

ある時、面談の終わり近くに、私はこんな質問をしました。「今、興味を持っていることや、好きなことは何かありますか?」
Aさんからは<歌が好き、自作の歌がいっぱいある>との返事が返ってきました。そこで、「次回、もしよかったら、歌を聞かせてもらえないかとお願いしたところ、快くOKの返事がもらえました。

そして、次のカウンセリングの日。面談が一通り終わった後、私が前回の歌の話を持ち出すと、Aさんはバッグからノートをとりだすと、少し恥ずかしそうにうつむき加減で、ゆっくりと歌い出しました。

私は目を閉じて、聴きました。Aさんの声は、細くて優しく、少し震えていて、絹糸のようなきれいな声でした。歌の内容は若い女性の淡い恋心を歌ったものでした。それは前回のカウンセリングで語ってくれた、密かに思いを寄せている男性のことを歌っていたのかなと想像しつつ聴かせてもらいました。

それは、ほんの数分間のことでした。けれども、その数分間は、数回のカウンセリングの中で、一番彼女のそばに近づくことのできた瞬間のように思えました。歌い終わったAさんの表情には、わずかながら柔らかな落ち着きと明るさがともったようにも見えました。

そのわずかにともった明るさを、さらに力強く広げていくお手伝いができたらよいのだが、と思いつつも、断片的な関わりしかとれない私のポジションと力の限界を感じて、とても残念に思いつつ、Aさんの背中を見送りました。

その後、Aさんはカウンセリングにみえることはありませんでした。体調を崩されたとか、入院されたという話を耳にしたことはありました。それから程なく、私も職場を移り、Aさんについての情報も入ってこなくなりました。

Aさんのカウンセリングから、4年ほど経ったある日。職場を替わった私は久しぶりに会った元の同僚に、「Aさん、その後どうされたかしら?」と、気になって尋ねてみました。元同僚の返事は予期せぬものでした。「自殺・・・されたとか・・・」

思いがけない返答に、言葉もありませんでした。遠い記憶の中から、Aさんの歌声が聞こえてきました。私は悲しく、残念な気持ちでいっぱいでした。
辛かったのでしょうね。
希望が見えなくなってしまったのでしょうね。
でも、それでも、生きていてほしかった。
そう願うのは、第三者の勝手な願望なのでしょうか?

<私はAさんに対して、ほとんど何もできなかった。できたのはたった一つだけ。歌を聞かせてもらったことだけ。ほんの短い時間だったけれど、あの時間だけはAさんと少しは気持ちを共有させてもらえたように思う>
同僚の話を聞きながら、半分信じられない気持ちで、ボーッとそんなことを思っていました。

Aさんから聴かせてもらった歌はたった一曲だけでした。それも数分間だけ。たったそれだけのことでしたが、それでも・・・。それでも、もしかしたら、病気のために交友関係の狭まってしまったAさんにとって、歌を披露する唯一の機会だったかもしれません。そう思うと、聴かせてもらって本当によかったと思うのです。観客は私一人でしたけれど・・・。

そして、ここで、これを読んでくださる方が、このささやかなできごとを知ってくださり、Aさんに思いを巡らせてくだされば、それもまた、Aさんの思いへの共感につながっていくのかもしれないと思います。

20数年という人生を懸命に生き、苦しい中でも自作の歌に夢や希望を託し、生きる糧としていたであろうAさん。そのAさんのことを、一人でも多くの方が、ほんの一瞬でも心に留めてくだされば、それはAさんの魂の安らぎへと連なるものなのではないか、そんなふうにも考えるのです。

人が生きるということは、そのように、誰かの記憶の中に生きるということなのかもしれません。

心から、Aさんのご冥福をお祈りします。

同時に、年間3万人とも言われる自殺者、そのお一人おひとりにかけがえのない人生があることを、改めて思わずにはいられません。いつの間にか、3万という大きな数字に慣れっこになり、人の命の重さが数字の多寡に置き換わってしまいがちな自分が恐いです。

これを書きつつ、改めて自戒を、と思います。

(プライバシー保護のため、状況や設定等は、趣旨を曲げない範囲で手を加えています。個別の事例を取り上げさせていただきましたが、Aさんの鎮魂の1ページとして、趣旨をご理解の上、特例としてご容赦いただければ幸いです)

どんなお天気でも心はserenity

(画像はクリックすると大きくなります)

2月に「近いうちに、ブログをリニューアルします」と書いたため、その後ブログを開くたびに「どこが変わったの?見えないところで変更があったのかな?」と、気にして見てくださっていたという声を聞きました。同じように、気に掛けてくださっていた方がいらっしゃいましたら、ホントにお騒がせなことですみませんでした。

さて、先週の木曜日(祝日)は瞑想会でした。その一週間くらい前、瞑想会に参加申し込みをいただいた方々に確認のメールをお送りしたときのことです。私は次のような言葉で始めました。

「風は冷たいですが、今日は気持ちの良いお天気ですね。
木曜日もこうだと良いのですが、この頃のお天気はわかりませんね。
どんなお天気でも、心はserenity(平安)といきたいものです。」

そうしたところ、返信メールにこんなふうに書いてくれた方がいました。

「<どんな天気でも心はserenity>=良いフレーズですね。大本語録に載せましょう」

何気なく書いたひとことでしたが、こんなふうに見てもらえて、私自身ハッとさせられました。そして、「serenity(セレニティ)」という言葉について改めて大事にしたいと思いました。

ちなみに、serenityの元々の意味は、晴れた日に、海が凪いで、静かな状態を表しているそうです。そこから、「平安」とか「静穏」という意味で使われています。

晴れて、波のない静かな海。セレニティのイメージを思い浮かべていただけるでしょうか・・・。私自身、落ち込んだり、心がザワザワしているとき、そんなセレニティのイメージに助けられています。

(写真は、沖縄県、嘉陽(かよう)の海です)

第三の目…4月の瞑想会のテーマ

このところずっと寒い曇り空でしたが、今日は久しぶりに日射しが戻ってきました。風もほんの少し春めいてきた感じがします。

さてさて、次回の瞑想会のテーマが届きました。
テーマは「第三の目」です。
「第三の目」って、皆さんご存じでしたか?
私は、言葉はなんとなく耳にしたことはあっても、内容についてはほとんど知りません。ですので、次回の瞑想会はいつも以上に興味津々、といったところです。

「目」と言うからには、テーマは身体の使い方に関係していそうな気がします。現代人は頭中心の生活をしているとよく言われますが、自分自身の日常を見てもそういう傾向がありますから…。身体を動かすだけではなく、身体をセンサーとしても使わなくっちゃ、っと思います。第三の目って、そういう意味ではないのかしら?(この辺は推測ですから。事実はどうなのでしょうか?)
と、こんなふうに書いても、何のことやらわかりませんよね。

すみません。
詳しいことは、サイトの「イベント欄」でご紹介することにしますね(今週中には掲載できると思います)。

<後日談>第三の目は解剖学とは関係ないそうです。何かの象徴としての目、ということでしょうか?瞑想会当日まで、ナゾです。ということで、あれこれと勝手に想像して興味をふくらませています。でも、より興味を持って体験できるので、想像をふくらませるのも悪くないかもしれませんね。