セレニティカウンセリングルーム

関連するコトバ 『 カウンセリング 』

夏の終わりに・・・

山形2

暑さの中にもどことなく秋の気配が感じられるようになりました。

早く涼しくならないかな~と思っていたのに、涼風が吹き始めると夏が名残惜しくなるというこの気まぐれ!なんなんでしょう?

写真は8月に学会で山形に行ったときのスナップです。

ここは駅に続く大通りなのですが、人通りは多くなく、片側3車線くらいの道路に広い歩道もあり、背景には山波が見えるという、ご覧のようにのびのびした風景です。

朝から大学の構内で缶詰になって講演を聴き、帰りは疲れた頭で、この道をのんびり宿泊先のホテルまで歩くと、ほんのちょっとした時間なんですが癒されました。8月にしては涼しい日だったのも幸いでした。

ところで、この写真の右奥の樹木、一抱えもある大木が数本切られずに歩道の中央に残してあるのです。樹木の下にはベンチ(これも切り株)が置かれていて、良い木陰を作っていました。道路の拡張などであっさり大木が切られてしまうことも多い中、地元の人や行政の優しさを感じました。

さて、今回の旅行、どこへも観光にも行かず、コンビニ弁当を昼食用に買い込んで、大学とホテルを往復していたという・・・こうして自分で書いていても、「なんと味気ない旅行!」としか思えないのですが、ところが個人的には満足だったんです。まず、講演の中身がとても良かったこと(聴きたい話が聴けたこと)。そしてやはり、初めて訪れる土地は、別にイベントや観光地に行かなくてもリフレッシュさせてくれました。

山形1

学会の今年のテーマは「こころとからだ」

カウンセリングの分野も、混沌とした世界の動向と無縁ではなく、これからは、人の生き方、人権、環境、社会とのつながりなど大きな枠で見ていく時代にならざるを得なくなるだろうということ。
過去の知見や学派(もちろんそれらが無用だというのではありませんが)に縛られず、人間丸ごとを見ていく必要性が出てきたのだと思います。

それらは頭の中で構築された回答ではなく、感情や直感を含めた(むしろそれらを信頼した)人間観が基になっていくように思われました。
ようやくそこに至ったという感じですが、希望もまたそこにあるように思いました。

Aさんの思い出

だいぶ以前のことですが、某所で、ある若い女性のカウンセリングを担当したことがありました。仮にAさんとします。Aさんは精神科に通院しながら、専門学校に通っている日々でした。相談日によって担当カウンセラーが入れ替わるシステムだったので、私は部分的な関わりでしかなく、数回カウンセリングでお話を聴かせていただいただけでした。

しかし、Aさんについては忘れられない思い出があります。

ある時、面談の終わり近くに、私はこんな質問をしました。「今、興味を持っていることや、好きなことは何かありますか?」
Aさんからは<歌が好き、自作の歌がいっぱいある>との返事が返ってきました。そこで、「次回、もしよかったら、歌を聞かせてもらえないかとお願いしたところ、快くOKの返事がもらえました。

そして、次のカウンセリングの日。面談が一通り終わった後、私が前回の歌の話を持ち出すと、Aさんはバッグからノートをとりだすと、少し恥ずかしそうにうつむき加減で、ゆっくりと歌い出しました。

私は目を閉じて、聴きました。Aさんの声は、細くて優しく、少し震えていて、絹糸のようなきれいな声でした。歌の内容は若い女性の淡い恋心を歌ったものでした。それは前回のカウンセリングで語ってくれた、密かに思いを寄せている男性のことを歌っていたのかなと想像しつつ聴かせてもらいました。

それは、ほんの数分間のことでした。けれども、その数分間は、数回のカウンセリングの中で、一番彼女のそばに近づくことのできた瞬間のように思えました。歌い終わったAさんの表情には、わずかながら柔らかな落ち着きと明るさがともったようにも見えました。

そのわずかにともった明るさを、さらに力強く広げていくお手伝いができたらよいのだが、と思いつつも、断片的な関わりしかとれない私のポジションと力の限界を感じて、とても残念に思いつつ、Aさんの背中を見送りました。

その後、Aさんはカウンセリングにみえることはありませんでした。体調を崩されたとか、入院されたという話を耳にしたことはありました。それから程なく、私も職場を移り、Aさんについての情報も入ってこなくなりました。

Aさんのカウンセリングから、4年ほど経ったある日。職場を替わった私は久しぶりに会った元の同僚に、「Aさん、その後どうされたかしら?」と、気になって尋ねてみました。元同僚の返事は予期せぬものでした。「自殺・・・されたとか・・・」

思いがけない返答に、言葉もありませんでした。遠い記憶の中から、Aさんの歌声が聞こえてきました。私は悲しく、残念な気持ちでいっぱいでした。
辛かったのでしょうね。
希望が見えなくなってしまったのでしょうね。
でも、それでも、生きていてほしかった。
そう願うのは、第三者の勝手な願望なのでしょうか?

<私はAさんに対して、ほとんど何もできなかった。できたのはたった一つだけ。歌を聞かせてもらったことだけ。ほんの短い時間だったけれど、あの時間だけはAさんと少しは気持ちを共有させてもらえたように思う>
同僚の話を聞きながら、半分信じられない気持ちで、ボーッとそんなことを思っていました。

Aさんから聴かせてもらった歌はたった一曲だけでした。それも数分間だけ。たったそれだけのことでしたが、それでも・・・。それでも、もしかしたら、病気のために交友関係の狭まってしまったAさんにとって、歌を披露する唯一の機会だったかもしれません。そう思うと、聴かせてもらって本当によかったと思うのです。観客は私一人でしたけれど・・・。

そして、ここで、これを読んでくださる方が、このささやかなできごとを知ってくださり、Aさんに思いを巡らせてくだされば、それもまた、Aさんの思いへの共感につながっていくのかもしれないと思います。

20数年という人生を懸命に生き、苦しい中でも自作の歌に夢や希望を託し、生きる糧としていたであろうAさん。そのAさんのことを、一人でも多くの方が、ほんの一瞬でも心に留めてくだされば、それはAさんの魂の安らぎへと連なるものなのではないか、そんなふうにも考えるのです。

人が生きるということは、そのように、誰かの記憶の中に生きるということなのかもしれません。

心から、Aさんのご冥福をお祈りします。

同時に、年間3万人とも言われる自殺者、そのお一人おひとりにかけがえのない人生があることを、改めて思わずにはいられません。いつの間にか、3万という大きな数字に慣れっこになり、人の命の重さが数字の多寡に置き換わってしまいがちな自分が恐いです。

これを書きつつ、改めて自戒を、と思います。

(プライバシー保護のため、状況や設定等は、趣旨を曲げない範囲で手を加えています。個別の事例を取り上げさせていただきましたが、Aさんの鎮魂の1ページとして、趣旨をご理解の上、特例としてご容赦いただければ幸いです)

どんなお天気でも心はserenity

(画像はクリックすると大きくなります)

2月に「近いうちに、ブログをリニューアルします」と書いたため、その後ブログを開くたびに「どこが変わったの?見えないところで変更があったのかな?」と、気にして見てくださっていたという声を聞きました。同じように、気に掛けてくださっていた方がいらっしゃいましたら、ホントにお騒がせなことですみませんでした。

さて、先週の木曜日(祝日)は瞑想会でした。その一週間くらい前、瞑想会に参加申し込みをいただいた方々に確認のメールをお送りしたときのことです。私は次のような言葉で始めました。

「風は冷たいですが、今日は気持ちの良いお天気ですね。
木曜日もこうだと良いのですが、この頃のお天気はわかりませんね。
どんなお天気でも、心はserenity(平安)といきたいものです。」

そうしたところ、返信メールにこんなふうに書いてくれた方がいました。

「<どんな天気でも心はserenity>=良いフレーズですね。大本語録に載せましょう」

何気なく書いたひとことでしたが、こんなふうに見てもらえて、私自身ハッとさせられました。そして、「serenity(セレニティ)」という言葉について改めて大事にしたいと思いました。

ちなみに、serenityの元々の意味は、晴れた日に、海が凪いで、静かな状態を表しているそうです。そこから、「平安」とか「静穏」という意味で使われています。

晴れて、波のない静かな海。セレニティのイメージを思い浮かべていただけるでしょうか・・・。私自身、落ち込んだり、心がザワザワしているとき、そんなセレニティのイメージに助けられています。

(写真は、沖縄県、嘉陽(かよう)の海です)

変化はどこから…カウンセリングと政治

もうすぐ夏休みも終わりです。そのせいか、最近、街中で子ども達の声があまり聞かれなくなった気がします。家で宿題に追われているのかな?

さて、近々衆議院選挙が行われます。カウンセリングの現場と政治とは、何の関係もないように思われそうですが、それがそうでもないのです。

大学の相談室の場合ですと、相談に来る学生さん達の家計を気遣う度合いが、グッと切迫感を持ってきた気がします。

進路・成績・人間関係など、学生達はいろいろな悩みを持って相談室に来るわけですが、「親の生活が苦しいので留年はできない」という、いわば背水の陣で、悩みを抱えて相談室にやって来る学生が増えた気がします(相談そのものが金銭的なことではなく)。

なので、じっくり相談するとか、精神的なケアを優先させるというよりも、経済的理由で解決の選択肢が限られる中で、じゃあ当面どうしたらよいかといった方向づけになってしまいます。

また、大学の経営上の生き残り策が、大学教育のあり方をゆがめ、結局それが学生の意欲の減退につながるという、個々の学生にしわ寄せが来ている面も少なくないような気がします。

こうしたことは、相談室では解決のつかない根深い問題で、国の教育政策に絡んで起こってくることです。

女性の方のカウンセリングの場合は、明に暗に、いろいろな形で社会の矛盾を背負わされた部分が多いのは、今に始まったことではありません。

男性が育児休暇をとれない、残業続きで夫も疲労の限界、だから夫の手助けは得られない、……お子さんの教育のこと、学校とのやりとり、ご夫婦の会話、……カウンセリングの現場には、社会の矛盾が噴出します。こうして「政治」はさまざまな場面に顔を出してきます。

と、こんな風に言ってしまうと、何だか絶望的な状況のようですが、そんなことはありません。
社会が変わらなくても、個人の日々の生活を変えることはできる…と始めるのがカウンセリングです。

そして実際、たとえ小さな変化でも変化が起きれば、人はそこに希望を見出して歩き出すことができるし、それが大きな歩みの一歩になるチャンスもいっぱいあるのです。

カウンセリングによる自分の一歩も大事にしながら、政治への希望や期待も忘れないでいたいなあと思います。

もういくつねると…年末雑感

もうあと一週間で、2008年も終わりなのですね。
すっかり日記のほうもご無沙汰してしまいました。

一昨日大学が冬休みに入り、気がゆるんだせいか、ドッと脱力感が押し寄せてきました。今年前半も早かったけれど、秋から以降も、あっという間に12月になっってしまった気がします。

この間、カウンセリングルームや大学の相談室では、個々の内面の問題だけでは処理しきれない、揺れ動く時代の様相を反映したいろいろな展開が次々にあって、まさに時代は大きな転換期に来ていることを肌で感じる日々だったような気がします。

私自身が自分の心のあり方や健康の維持も含めて、より柔軟に、よりしっかり研鑽を積んでいく必要があるのだろうと思います。

さまざまなことに偏見を持たず、素直に真摯に学ぶこと、子どものように無心に遊ぶこと、楽しむこと、そして静かに自分に向き合う時間も……。

こうしたことのバランスが、きっと自分を健康に維持するためにとても大事なことなのでしょうね。

と、殊勝な心がけとは裏腹に、現実は自分の期待を裏切って、ホントすぐ怠けるのでね…。そう、せめて大掃除くらいは怠けずに(形だけでも!)やらなくては、と心に決めつつ、「まだ来週もあるし~」と先送りにしている今日この頃です。

メリークリスマス!