セレニティカウンセリングルーム

カテゴリー 『 教育 』

「なぜ死んではいけないか」に向き合うこと

今年の梅雨は時々中休みというか、いくらか涼しい日があります。あくまで関東でのことですが、皆さんのお住まいの近くはいかがですか?今日もそんな、比較的過ごしやすい一日でした。

ところで、かつて偏差値教育の弊害ということが盛んに言われたことがありましたが、偏差値教育とは何だったのか、最近改めて考えさせられています。ちょうど年齢的にも、偏差値教育を受けた世代の子どもさん達が中・高・大学生くらいの年齢に達しているところでしょうか

偏差値教育の弊害とされたのは、数値化された一つの物差しですべてを判断し、優劣を競うことが目的化してしまうというようなことだったと記憶していますが、それらは偏差値教育世代の親を通して、子どもに血肉化される形で、意識されないまま子どもの人格形成に大きな影響を与えているように思います。

親の世代で、一度未消化ながらも消化され、通過していったものが、今度は子どもの中で無意識に子どもの価値観となり子ども自身を縛っているように感じるときがあります。親の育児やしつけ、または教育の中で、ごく自然な形で内面化されたものの見方が、子ども自身を苦しめているように見受けられるのです。

「役に立つかどうかで人を判断してしまう」「無意識のうちに人に序列をつける」「一見役に立ちそうもないことや非効率なことに嬉々としてとりくみ満足している人が許せない」などなど。挙げ句の果ては、「結果を出せていない自分はダメ→ 役に立たない自分は居る必要がない→ 居てはいけない」となってしまいます。

「かけがえのない自分」に気づいてほしくて、私としては総力戦になるのですが、ときにはカウンセラーであることを忘れ、単なる一人の世話好きオバサンになってしまいそうで、オットットー!と慌ててブレーキを掛けることも。

何はともあれ、「なぜ死んではいけないのか?」そんな根源的な問いに答えられないまま(と言うより真向かいにならないまま)、私たちは何を子どもに教育しようとしているのだろう、とふと思ってしまいます。大人が向きあうべき課題に直面することを恐れて、見ないようにしている結果が、今日の子どもたちの悩みや、教育にまつわる課題として噴出してきているように思われてなりません。

大津市の自殺中学生に対する教育関係者の対応など、日頃の大人たちの姿勢が顕著に反映されていますね。ここから何も学ばないとしたら本当に大人の罪は重いです。

「大人として向き合うべき課題に向き合っていますか?」相談者の若者達から、毎回こんな問いかけをされている気がして…、自戒を込めての記述でした。

緑のエネルギー

緑の樹木を見ると力が湧いてきます。若い力に通じるようなエネルギーを感じて。

キャンパスの一角に立派な「合歓の木(ねむのき)?」でしょうか?

まさにしたたるような緑の巨木です。見上げて写した携帯写真はといえば、単なる大きな木だったので、ガッカリして削除してしまいました。実物は結構な迫力なんです(って、説明だけでは分からないですよね。すみません。枝の一部だけご披露させていただきます)。
下の写真は秋バージョンです。茶色なのも素敵!


そうか!この角度で写真を撮ったらよかったのですね。再度、挑戦してきます(思い出したらですが ^^;)。








閑話休題。
いきなり重い話題ですみません。

時々、事件の報道などで、加害者についてコメントを求められた人が、「おとなしく、穏やかで、とてもこんな事件を起こすようには見えなかった」「礼儀正しいし、会えば笑顔で挨拶するいい子でした」「勤務態度も良く、真面目だった」などと、戸惑った感じで答えている場面に出合うことがあります。学校の先生などはごく普通の生徒だった」と表現したりもされます。

その度に、私は釈然としない思いとともに、心の中がザワザワしてしまいます。その時の気持ちを言葉にすれば、きっとこんなふうです。
「特別に凶悪な人だけが事件を起こすわけではない。人は皆、大なり小なり悩みを抱えているけれど、誰にも相談できず、わかってくれる人が一人もいなかったときに、自分一人では抱えきれないくらいの悲しみや怒りや憎しみを抱えて、ほんのちょっとしたキッカケで大きな過ちが起きてしまう、・・のでは?」と。

辛いときに、辛いということすら表さずに(表せずに?)、表面上はあくまで「普通」を装わずにいられない、またそのように要求されるのが、今の世の中であるような気がします。弱みを見せられないというか、弱音を吐けないというか、そんな辛さです。
若い人の相談を受けていると、そうした窮屈さを小学生頃で早くも感じているようで、もっとのびのびと子ども時代を過ごさせてやりたいと痛感することも多いです。
歳のせいか、次世代に対する責任として何ができるかということをこの頃よく考えてしまいます。微力は百も千も承知の上ですが・・・。

大学も満開の桜

大学の相談室も始まったある日、スクールバスの乗り場前は満開の桜。近づいてみると、写真に映っている彼女も桜の花をカメラに納めていました。みんな考えることは同じなんですね。

この写真の日からすでに10日。今は葉桜になり、季節は新緑の季節へと移りつつあります。

昨年は怒濤の新学期で息つく暇もありませんでしたが、一転して今年は、なぜか・・・静かです。このままいくのでしょうか?それとも・・・。いずれにしても、みんなが無事に良いスタートを切ることができますように。

ご無沙汰しました!

随分長らくご無沙汰してしまいました。申し訳ありません。

一応元気?にしております。

なんだかんだで大学の相談室が大忙しでした。今年は私の担当日が週2日から3日になったというのもあるのですが、相談件数そのものがけっこう増えているようで、てんてこ舞いの毎日でした。

「夏休みに入るまでは、とにかく健康でがんばらねば・・・」と気を張っていたのですが、7月いっぱいで大学が夏休みに入った途端、ガタッと力が抜けてしまいました。これで猛暑だったら、どうなっていたことでしょう。このところの涼しいお天気に感謝、感謝です。

学生さんも大変だなあ、そのバックのご家庭や先生方も同じく大変だし・・・。こんな時代だから、いたわり合って、お互いにゆっくりやっていきましょうよ・・・などと声を掛けたくなってしまいます。簡単に一括(くく)りにしてはいけないとは思うのですが、ゆっくり歩いたり、時には立ち止まったりしてもいいのではないでしょうか。

お互いにめいっぱい頑張っている気がするのです。それでもどこか虚しかったり、孤独だったり、幸せになれていないとしたら、この社会は目指す方向を、少しばかり修正する必要があるのかもしれないなあと思ったりもするこの頃です。これは単に私の“お疲れモード”のせいなのでしょうか・・・。

ちょっと暗いですね、うつむき加減ですよね。

では、空に向かって・・・

緑の行進!!!

写真は3週間くらい前のものです。今はどのくらい伸びたでしょうか?

 

「批判なき真面目さは・・・」

写真は、先週末、カウンセリング学会に出席したときのものです。手前の橋の欄干には「ここからの眺めが、春日部で一番美しい風景・・・」との看板がかかっていました。

なるほど、橋から望む風景は、両岸の緑が川面に映り、青空の下を、川が緩やかに弧を描いて岸辺の草の陰に消えていく・・・。そんな心和む風景でした。

ところで、カウンセリング学会は、教育、心理、福祉、医療、子育て、行政、司法などなど、実にさまざまな分野の構成員からなるので、研修会や講演会のテーマも非常にバラエティに富んています。それらバラエティに富んだテーマの研修を受け、次々と講演を聞くにつれ、当然のことながら、人や社会のことについてさまざまな角度からいろいろなことを考えさせられます。

「幸せって何なのかなあ?」とか、「社会のあり方は?」とか、「自分自身の問題としてどうなんだろう?」というように、出てくる疑問や課題は尽きません。研修や講演会に参加して何かが解決したというよりも、課題や問いをもらって帰ってきたという方があっているかもしれません。

そんなモヤモヤした頭の中に、ふと手にした新聞記事の一行が目に飛び込んできました。

「批判なき真面目さは悪をなす」

評論家の吉武輝子さんが敗戦後の旧制女学校で、岡本先生という50代の女性教師から聞いた言葉だそうです。

ある時、先生は授業中にふと黙りこくり、ぽろぽろと涙を流し、そしてこう言われたそうです。
「皆さん、批判なき真面目さは悪をなすことを忘れないでください。私はどれだけ、生きたいと思う若い人を殺すことに手を貸したか分かりません」

しばらくして先生は、「人を教える資格がない」と言って、学校を去り、実家に戻る決心をしたそうです。先生は駅で見送る生徒達に、重ねて「批判なき真面目さは悪をなす。忘れないでね」と何度も繰り返したそうです。

吉武さんは言います。
「思えばこのころ、学校は先生と生徒が目線を平らにして向き合うことができる場所でした。これこそ本当の戦後民主主義教育です」

岡本先生のとった行動と言葉は、きっと生徒達の胸に深く刻まれたことと思います。教育に限らず、人と人とが平らな目線で向き合うことができたら、言葉には血が通い、相手の心に届くはず。そうした言葉を使っての教育は上辺の知識ではなく、深い理解と効果を持つものになるのではないでしょうか。そして何より嬉しいのは、そんな人間関係の育まれる社会は、人がもっと自分自身を大事にできて、なおかつお互いが思いやりを持てる、そんな社会になる気がします。

批判をするには自分の頭で考えなくてはなりません。考えたことは言葉で相手に伝える必要があります。・・・自他を尊重しつつ、言葉でちゃんと意思表示していく、アサーション・トレーニングにも通じる言葉だと思いました。岡本先生の言葉、しっかり心に留めておきたいと思います。