セレニティカウンセリングルーム

指先をケガして気づいたこと

「一般的に〇〇だ」と言いたいとき、自分自身もその中に含めた上で、よく「私たちは」という表現をします。でも、ふっと思ったのです。この「私たち」ってすごく大ざっぱだなあって。「私たち」と言うとき、「私たち」とはどんな人を想定しているのでしょう。考えてみると、とても曖昧なくくりであることがわかります。

言ってみれば、この「私たち」は「多数派」ということに過ぎないように思います。私自身、「私たち」と安易に使ってしまうのですが、そのとき、私は自分を多数派の側に身を置いて使っているわけです。そして「私たち」と何気なく使うことで、「私たち=多数派」に属さない人達を知らず知らずのうちに除外してしまう結果になっているのではないだろうか、とも思うのです。そんなことに気づかされた出来事がありました。

先日、料理をしていて包丁でほんの少し指先を傷つけてしまいました。たいした傷ではなく、「バンドエイドを貼って、ハイおしまい!」という程度のものでした。ですが、そんなたいしたことのない傷であっても、ドアの取っ手をつかんだり、重い物を持つときに力が入らず、とても不便な思いをしました。

ささいなことから不便が生じたり、何かができなくなってみて初めて、世の中は「元気な人=心身共に不自由のない人」を基準につくられているという現実に直面することになります。そこで初めて、ふだん何気なく使っている「私たち」という表現は、決してすべての人を意味する「私たち」ではなく、「元気な人=心身共に不自由のない人=多数派」を表している言葉に過ぎなかったということにも気づかされます。

指先の切り傷は、数日でほとんど不便なく使えるようになりました。「私たち」が意味するもの、忘れないように、何かしらの形で常に意識させることが必要なんだろうなと思います。自分の忘れっぽさ、を思うと…。

ロールプレイ

毎度のご無沙汰で失礼いたしておりました。
ときどき訪れてくださっていた方、すみませんでした。

決してサボっていたというわけではないのですが、書きたいことがあるときには時間の余裕のないときが多く、時間ができたときには書きたかったことを忘れている、なんていうことを繰り返しておりました。

それに時間が経つと、しばらく前に書きたいと思ったその題材では、気の抜けたサイダーみたいな気がして、モチベーションが上がらないというときもあったりしました。

・・・・とグダグダ言っておりますが、・・・単なる言い訳です。

さて、今日はアサーション・トレーニングについて少し書いてみたいと思います。アサーション・トレーニング一般ではなく、セレニティでやっているワークショップについてです。

アサーション・トレーニングは「トレーニング」と言うからには、きっと繰り返し繰り返し小難しいことをやっているのだろうなと思われるかもしれません。が、決してそんなことはないんですよ。

ロールプレイを中心に、体験重視。毎回、和気あいあいとトレーニングしています。時には、役者顔負けの真に迫るロールプレイをやってくださる方がいたりし て、爆笑しつつ進行することもあります。そんな時は、私は流れに任せて、見守る立場です。いろいろな指示を必要としなくても、とってもうまくワークの流れ ができていきます。

それはロールプレイをやってくださる参加者の方が、うまい演技をしようと思うからそうなるのではなく、その場面設定に合わせ、ご自分の真実の気持ちで役に なりきるために、自然に良い流れが作られるのだと思います。作為がないというのでしょうか。うまくやってやろうではなく、気持ちを入れて役割にあてはめてみたら、結果として役にピッタリなりきっていたというわけです。

アサーション・トレーニングではある役割を演じてみたとき(役のポジションに入ってみたとき)の、そこでの自分の感じ方、気持ちに注目します。たとえば、 いつものように言ってみたときに、相手の人がどんな気持ちになるか、自分はどういう気持ちで言っているかなどに焦点を当てて見ていきます。

いわゆる演技ではないので、うまいヘタは関係ありません。自分の気持ちに気づき、相手の人が感じをつかめればよいのです。

そうは言っても面白いもので、気持ちが入ると人は自然にそれにふさわしい振る舞いをしてしまうもののようです。皆さん、それぞれ個性豊かにロールプレイを やってくださるので、毎回本当に感心してしまいます。バリエーション豊かな表現が出てきて、お互いのフィードバックも活発になります。

楽しい笑いが起きて、温かい雰囲気に包まれるのも、きっとワークショップの魅力の一つですね。毎回、それを味わわせてもらっている私は、本当に幸せ者だなあと思っています。

日々は流れて(瞑想会へのご案内)

いつものことながら、ついこの間、日記を更新したばかりと思っていたのですが…。あっと言う間に2週間近くも経っていました。1年が早いわけですねぇ。

前回触れた瞑想会のテーマについてですが、やっと先日ご案内の文章を考えてサイトにアップしました。あれこれ考えた割には、どうということのないご案内文になりましたので、どうか期待せずにお読みください。

日記になど書いたもので、期待させてしまったとしたらすみません。拍子抜けしちゃいますよね。

会はまだ先(来年)の話ですが、ご興味がおありでしたら、ぜひお出かけくださいませ。来年のカレンダーをすでにお持ちでしたら、印を付けておいてくださいね。1月23日(土)です。

このような私でも「継続は力なり」の見本になら、なれる可能性はあるかもしれません。身についてはいないながらも、ほんのちょっとずつ、「見ている」という感覚がわかってきたような気がするときがあるからです(ほ~、ホントかい?!)。

まあ何はともあれ、日々は流れ流れて、私たちは歳をとっていきます。ごくごく自然に…。

セレニティ瞑想会

お待ちかねのテーマ(1月の瞑想会)

来た来た来た、来ましたよ!
何が来たかというと、・・・・・

瞑想会の

テーマです。

「なんだ、そんなこと?」と思われますよね?ところが、私にとっては難問なのです、これが。ファシリテーターのSohamから届くテーマは、毎回そのものずばりの直球です。

一言のブレもなければ、真実そのもの(たぶん)。

(瞑想会のテーマなのだから、それは当然だし、それでよいのですけれど…。それにテーマを作ってほしいとお願いしたのは私のほうなんだし…)

そのものずばりのテーマ。

でも、私たちの日常は、「ぶれまくり」「嘘八百」「横道にそれてばっか(というのは私だけかもしれないけど)」なので、<直球のお言葉>を聞くと、耳がくすぐったくなったり、口にしようとすると、目がアチラの方を向いちゃうというわけです。

で、どうするかというと、恐れ多くも、毎回、私なりの勝手な解釈で瞑想会のテーマを料理させてもらっています。テーマを元に、私がコピーを考えます。

料理は素材が良いとおいしく出来上がるのがふつうです。ですがこの場合は、素材が良いのに、料理のしかたがヘタで、素材そのまんまよりも、おいしくなくなってしまう恐れも多分にあるという危険いっぱいのお話なのです。

だから、毎回テーマが送られてくるまでがドキドキ。来てからは、ウンウンうなって料理することになります。ましてや今回のテーマに至っては、「ついに来たか!」のテーマなのです。

テーマは「死」。初期の頃にも取り上げたことはあります。確かあの時は「老いと死」だったかなあ。
今回はちょっとアプローチのニュアンスが違うのですが、いずれにしても人間にとって、生きものすべてにとって、逃げも隠れもできないテーマです。

「さあ、どうするかなあ~」ってなことをこの日記に書いて、こうやってごまかしているのであります。

日頃手にできないほどの素晴らしい食材を思いがけずいただいてしまい、メニューを思いつかずに困り果て、キッチンの中をグルグル歩き回っている………ちょうどそんな心境なのであります。

何はともあれ、たぶん来週中にはサイトにアップするつもりです。
できたら笑ってやってくださいませ。
メニューはこれだったかと。ハハ、ハ ^^;

ジェネレーションギャップ?…携帯にメモする

ジェネレーションギャップという言葉を時折耳にします。ある年代では当然と思われることが、別の年齢層の人達にはまったく違って受けとられる、みたいなことですが、私はそれをコミュニケーションの手段について時々感じています。会話や伝達の手段として何を使うか、ふだんどんな手段になじんでいるかは、けっこう世代や年齢層によって、異なるように感じるのです。

実際に、こんな経験があります。
大学の相談室で、「次回までに、〇〇について気がついたことがあれば、メモしてきてくださいね」とお願いしたことがあります。

その時、私の頭の中には、「メモする=紙と筆記具」のイメージがありました。なので、次回は学生が持参したメモを一緒に見ながら、カウンセリングを進めていこう、そんな心づもりでいるわけです。ところが、そのとき実際に学生がメモしてきたのは携帯電話のメモ機能をつかってでした。

私にとっては、ちょっとしたカルチャーショックでした。今まで、同じように「メモしてきてください」とお願いする場面は何度も経験していますが、携帯電話というのは思いもよらなかったのです。メモと言えば「紙に書く」であったのが、「メモは携帯に」が当たり前になっている事実が(少なくともある年代では)あることを知らされたのでした。

もちろん、若い人たちばかりでなく、日頃携帯を使い慣れている人であれば、携帯電話にメモをすることはあるでしょうから、厳密に世代によるギャップとは言えないかもしれませんが、携帯の機能を使いこなしている若い人ほど「紙より携帯にメモ」の確率が多いと言うことは言えそうです。

カウンセリングの場面で、私が想定していたのは、お互いにそのメモを見ながら、話をするキッカケにしたかったのですが、携帯の小さな画面ではそうもいきません。

そこで、その時は紙を渡し、携帯画面から改めてメモの内容を書き写してもらって、それを見ながらカウンセリングを続けました。

紙にメモしてもらうと、付随的にメモに書かれた内容以外の情報も受けとることができるというメリットもあります。字のうまいヘタということではなく、その人の個性が文字や書き方には自ずと現れているからです。

そんなこともまた話のキッカケにすることもできますし、ささやかなことが大事な情報源になる場合もあります。

いずれにしても、コミュニケーション手段一つにしても自分の思いこみを捨てて、それを使いこなしている人達の日常感覚についても、ちゃんとキャッチできる状態でいたいものだと思ったことでした。