セレニティカウンセリングルーム

第三の目…4月の瞑想会のテーマ

このところずっと寒い曇り空でしたが、今日は久しぶりに日射しが戻ってきました。風もほんの少し春めいてきた感じがします。

さてさて、次回の瞑想会のテーマが届きました。
テーマは「第三の目」です。
「第三の目」って、皆さんご存じでしたか?
私は、言葉はなんとなく耳にしたことはあっても、内容についてはほとんど知りません。ですので、次回の瞑想会はいつも以上に興味津々、といったところです。

「目」と言うからには、テーマは身体の使い方に関係していそうな気がします。現代人は頭中心の生活をしているとよく言われますが、自分自身の日常を見てもそういう傾向がありますから…。身体を動かすだけではなく、身体をセンサーとしても使わなくっちゃ、っと思います。第三の目って、そういう意味ではないのかしら?(この辺は推測ですから。事実はどうなのでしょうか?)
と、こんなふうに書いても、何のことやらわかりませんよね。

すみません。
詳しいことは、サイトの「イベント欄」でご紹介することにしますね(今週中には掲載できると思います)。

<後日談>第三の目は解剖学とは関係ないそうです。何かの象徴としての目、ということでしょうか?瞑想会当日まで、ナゾです。ということで、あれこれと勝手に想像して興味をふくらませています。でも、より興味を持って体験できるので、想像をふくらませるのも悪くないかもしれませんね。

「セレニティ日記」の衣替え

寒暖の激しい毎日ですが、皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。このところ寒い日が続いていましたが、今日は一気に春の陽気。そんな中、満開の紅梅を目にしました。

さて、近々、当「セレニティ日記」の衣替えを予定しています。装いも新たに皆さまにお目にかかるべく準備中です。より読みやすく、情報量も増やせる仕様になる予定です。今のブログは書き終わってアップする段階で、よくミスして消してしまうことがあるのです。そうした不具合(と言うか私のミスしやすいところ)もカバーされそうなので助かります。

そんなこんなで、過去の記事タイトルも内容が伝わりやすいタイトルになるよう、見直す作業などしているところです。これが結構しんどい作業なのでなかなか進みません。何しろ書いたときは、あまり深く考えずに、気楽にタイトルをつけていたので、ちゃんと内容を表すタイトルとなると困っています。それに、あまり内容のない文章もいっぱいあって、タイトルをつけるほどではなかったりして…。読み返すと冷や汗ものです。

ということで、中身自体が大きく変わるわけではありませんので、あんまり期待しないで(でもちょっとだけ期待して)、待っていてくださいね。

「そんなことよりもっと頻繁に更新を!」---と言う声が聞こえてきそう。

ごもっとも!!

「過激」になれない時代

あらあら、気づいたら1月も終わろうとしています。年明けに書き込んだきりで、すっかりご無沙汰してしまいました。今年はちょっとはマメに、なんて思っていたんですが、ちっとも変わりませんね。

先日、ある本を読んでいてとても納得したことがあります。それは次のような一節です。

「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています。」『ぼくらの言葉塾』ねじめ正一(岩波新書)

ここでいう「過激」とはどういうことか、詩人である作者の言葉を借りてみると・・・。

・詩の言葉が狭いと感じていて、それを広げたかった
・詩らしい言葉づかいをいったんぶっ壊して、そこから新しい、風通しのいい言葉の世界を作り上げたかった

というねじめ正一さんは、30代の頃、過激詩人といわれていたそうです。「カッコよく言えば、言葉の原初の力を取り戻す」ことをめざしたそうです。

そういう意味の過激です。
もう少し具体的に説明するために、この本の小見出しを拾ってみましょう。
「ギザギザ言葉で原初の力を取り戻す」
「暗黙の了解を打ち壊す」「スリリングに繰り返す」「言葉をぶん投げられる肉体のパワー」「言葉の太刀を振り回しズレを楽しむ」など、過激さの実態をご想像いただけるでしょうか。

小見出しそのものの過激さ加減は、詩人の巧みな修辞によるものであって、語られている内容は、刺激的ではあっても至極まっとうな内容です。「正確な観察から生まれる想像力」という小見出しがあることからも、その方向性はご想像いただけるかと思います。

そして、過激な詩の一例として、皆さんよくご存じの「ねこふんじゃった」(阪田寛夫)が挙げられています。この曲は世界中でさまざまな歌詞がついているらしいのですが、ここに取り上げられた阪田寛夫さんの詩は、

ねこがふんづけられて お空へとんでって かさをさしてふわりふわり雲の上……

そして最後は、「あしたの朝 おりといで」と言いながら、子ども達は「ねこグッバイバイ」とおうちに帰ってしまう、という何とも奇想天外な展開になっています。

長々と拙い説明をしてしまいましたが、ここでの過激がどういうことを指しているか、少しはご理解いただけたでしょうか。
きれいに整えられたものではない、ちゃんと理屈が通っているものではない、常識的なものではない、誰にも好まれるものではない、当たり障りのないものではない、などなど…。私は「過激」をそんなイメージで捉えました。

「きれいに整えられたもの」や「ちゃんと理屈が通っているもの」、そして「常識的なもの」や「誰からも好まれるもの」や「当たり障りのないもの」などなど、そうしたものにつきまとうカラをいったん破って、自分の正確な言葉の表現を試みてみよう、と呼びかけているように思えます。

さて、最初の2行に戻ります。
「虫や動物や得体の知れない生き物を借りてしか過激になれない時代というものに、私はいささか空恐ろしさを感じています」

大学で学生さん達の相談を受けていると、「ぶち壊していいんだよ。やってごらんよ」と心の中で思わず叫びたくなるときがあります。相談に来た彼らが、過激になれない時代の息苦しさを一身に背負っている、そんな気がしてしまうのです。
学生さん達の背負っている息苦しさは、私たち自身にも重なってくるものがあります。

虫や動物や得体の知れない生き物のように過激になれる人間、そんな人間が愛され、許容される社会をふと熱望してしまいます。

新年に「時」を思う

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

年々お正月らしさが薄らいでいく感じですが、特に今年は、あっという間に三が日が終わってしまった気がしています。皆さんはいかがでしたか?どんなお正月を過ごされたでしょうか?

この年齢になると、一日一日が「何となく昨日の続き」みたいになりがちです。が、幼い子どもの成長を見ると、昨日と今日が確実に違うと思わされることがあって、時は流れていることをハッキリと感じさせられます。

時間の経過だけではなく、その時間をどのように成長に生かしているかという証しとでもいうのでしょうか。一日で、「昨日できなかったことが、できるようになった!」と驚かされることがあります。子育てを経験された方なら、たぶんどなたにもそんな経験がおありでしょう。

昨日はまったくハイハイできなかったのに、今日は少し身体をずらして移動できるようになったとか、昨日は言えなかった言葉が、今日はちょっとだけそれらしい発音になったとか…。一日で、変化を感じることができるときがあります。

(おとな=私の場合、子どもとは反対に、悲しいことに記憶の低下だけは確実に早いです。まったく嫌になります。当然出てきて良いはずの名前が出てこないときとか、焦ります。幸い今のところ、出てこないのが女優さんの名前くらいですんでいますが、この先が心配~~~)

子どもにもおとなにも、同じだけの長さの一日。大事にしたいものです。それに、何と言ってもこれから先の長さを考えたら、時間の価値の大きいのはおとなのほうかもしれませんよね。

とまあ、こんなふうに今年も、愚にもつかないことをグダグダ書きそうな気がしますが、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さまにとりまして、今年がよい年でありますように!

車内のほのぼの会話から思う、年越し派遣村

今年も今日で最終日となりました。

バタバタと年末を過ごしておりますが、皆さまはいかがお過ごしですか?セレニティ日記の更新が滞っているのが気になり、キーボードの前に座ること1時間、やっと書き上げてアップ、という時に、ボタンを押し間違えて全部消滅!!意気消沈しつつも、気を取り直して、書き始めたところです。

先日、電車の中でのこと。

夕方早い時間で、学校が休みに入り、車内も空席があるかないかという混雑具合でした。数人の男子高校生の隣の席が微妙に空いていたので、「すみません」と声を掛けつつ座ると、床に置いた大きなバッグを足でズルズルと動かしながら席を空けてくれました。

その彼は、大きなカップ麺の器を手に、そろそろ食べ終わるという様子でした。

カップに残ったおつゆからは、フワ~ッとおいしそうなラーメンの匂いが…。
「いい匂い!!」と思わず声に出てしまいました。
「今日、試合だったんで、今やっと食べてるんです」とカップから顔を上げずに、高校生。
「あ、そうだったんだ。・・・で、勝ったの?」と私。
一心に最後の中身をかき込みながら、「はい」と何度も頷く彼。
「そう、それはよかった!」

彼と私の会話を聞きながら、仲間の高校生もニコニコ。これだけの他愛ない会話でしたが、何だか心がポカポカしたひとときでした。

やがて、お腹がいっぱいになった彼らはこっくりこっくり…。夕日の射す車内は、心なしかのんびり穏やかな風景に見えたのでした。

その時、ふと思い出したことがありました。
大学の相談室に来たA君、B君…、彼らはどうしているかなあ。当時、話し相手が誰もいないって言って、束の間、相談室で他愛ないオシャベリをして帰って行ったけれど、その後話し相手は見つかっただろうか。仕事は見つかったかな?体調もよくなさそうだったけど、その後良くなっただろうか…などなど。

せめてA君、B君の近くに、たわいのない会話でいいから、話し相手になる誰かがいてくれますように。そんなことを思いながら電車に揺られたひとときでした。

一方、「年越し派遣村」が今年も各地の自治体によって設置されたそうです。職のない人、ホームレスの人達のために宿泊と給食を提供するための場所です。「屋根のある所で年を越せるのがありがたい」とは入居者の切実な声です。

でも4日には退去しなくてはならず、その後はまた寒空に転々とする生活が待っているわけです。1年半前は普通のサラリーマンだったという人もいて、誰にとっても他人事ではありません。

この場合も、仕事や住居がないだけでなく、人とのつながりが切れてしまっていることが、状況を一層深刻にしているように思います。誰かと話ができれば、同じ状況にあっても元気が湧いてきて、前向きな思考にもつながるはずです。

ささやかでも人とのつながりがあれば、人は何とか生きていくことができるものではないでしょうか。見知らぬ人とのささやかな会話も、もしかしたら意外に効果のある手だてになるのかもしれない、そんなふうに思ったりもします。

とりとめない内容になってしまいましたが、来年もささやかな実践をめざして、一歩一歩やっていきたいと思います。

今年一年多くの方にお世話になり、いろいろな形でお力添えを頂き、ここまでやってくることができました。ありがとうございました。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。