カテゴリー 『 心理・精神 』
「ノッティングヒルの恋人」ブラウニーは誰に?
映画を見ていて、「あっ、これは?」と興味を引く場面に出会うことがあります。映画の本題とは全然関係ないささいなことなのに、つい興味がそちらのほうに向いてしまう、そんな経験ってありませんか?
先日、アメリカ(イギリスだったか)の恋愛もののコメディをDVDで見ていたとき、そんな場面に出会いました。(カウンセラーという仕事柄、何でもない場面を心理描写を交えて自己流に解釈したというだけのことかもしれないのですが…。)
主人公の男性と恋人が、友人の気軽な誕生パーティーに出席しました。そろそろお開きという頃、料理は食べ尽くされ、テーブルの真ん中にはチョコレート菓子(ブラウニーだったかな?)が一つだけ器に載っていました。その一つを手にとって、仲間の一人が提案します。
「さあ、この最期に残った一つは、今日ここにいる中で、最も惨めな一人へのプレゼントにしよう。」(一同、笑いながら同意)
そこで、テーブルを囲んだ男女7~8人の仲間は、笑顔で、淡々と、あるいはしんみりと、次々に自分たちの過去に出会った惨めな体験を語っていきます。(これは心理援助の方法の一つである、自助グループの分かち合い(=シェアリング)体験と同じですね)
ここで語られる内容ときたら、実は「ちょっと惨め」どころか、本来かなり深刻でつらい内容の過去だったりもするのですが、気心しれた仲間うちということもあって、それぞれが率直にあけすけに言いたいことを語っていきます。お互いが、語られる内容を自分の体験や思いにも重ねたりしながら、気持ちを受け入れることで、安心して語り合える場になっていきます。
そうしたなか、最期に主人公の男性が自分の体験を語り、「〇〇〇〇ということだから、この中で一番惨めな話をしたのはなんといってもこのボクだね。では、これはいただきだ!」と、その日一番ホットで惨めな体験にもかかわらず、ユーモアを交えてブラウニーを手に取ります。
私自身もこうした「分かち合い」はワークショップでとりいれることもありますが、そういう場合はたいてい「嬉しかったこと」などをテーマに話すことが多いので、「惨めな話」をテーマに語るというのは、新鮮な感じでした。
ヘタをするとものすご~く暗く、それこそ惨めで、惨めな体験がさらにつらい思い出にならないとも限らない中、この暗くならないすれすれの微妙な雰囲気でユーモアを保っているところに、とても興味が湧きました。文化の違いも大いにありそうな気がします。
「惨めな話」を披露しあってお菓子をゲットするためには(もちろん映画というのもあるけれど)、自分自身を少しばかり距離を置いて眺められる冷静さと、それになんといってもユーモアを解する感覚が欠かせない要素であるように思います。
また、他人の意見に左右されない自分もいないと、目の前で自分に関する話が出てくると冷静に聞けなくなるということも考えられます。
それぞれ人生の山あり谷ありの起伏が、ほんのちょっとした小休止のような空間を必要としていたのかもしれません。はち切れる若さでもなく、かといって老いを感じる年には遠い、40代か、それよりちょっと前の年齢層の人達が、立ち止まる地点として・・・。
そうして話した後は、ちょっとばかり話す前よりもラクになって、ほのぼのお互いの存在を認め合う空間が出来上がっている、そんな雰囲気が心地よい場面でし た。
おしゃれでほろにがブラウニー味のラブコメディでした。
映画は「Notting Hill」(邦題「ノッティングヒルの恋人」1999米 ヒュー・グラント、ジュリア・ロバーツ)」。
卒業シーズン
大学の後期授業が終了しました。学生相談室はお休みになります。
当然4年生の学生達は卒業していきます、カウンセリングが終了してもしなくても…。
相談室での悩みも解決し、晴れて卒業する学生の場合は、私もとても晴れ晴れした嬉しい気持です。
いっぽう、大学の相談室では手に余る問題のこともありますし、短期間に解決できない問題のことも…。そうした場合にも、卒業と同時にカウンセリングのまとめのような形に持っていかなくてはなりません。
ここが一般のカウンセリングルームなどと違うところですね。カウンセリングの途中であっても終結しなくてはいけないのです。
複雑な心境です。もちろん、卒業に合わせてカウンセリングが終了して送り出せるように最大限努力するのですが、必ずしも願ったとおりには進みません。
そうしたとき私にできることは、卒業までとにかく寄り添い、伴走すること。
解決できない問題を抱えたまま卒業する学生にはこんな風に伝えることも…。
最後の面接で―、
「とにかくこれからの人生どんな時も諦めないで、自分を大切に毎日を送っていってほしい。良い出会いがあることを祈っているよ。」
言葉に思いを精一杯込めて送り出します。
普段と変わらぬ様子で、背中で私の言葉を聞いて出て行った○くん、がんばれ!
分かち合い
すっかり更新が滞ってしまい、失礼しました。
書きかけのエントリーが幾つかあったのですが、時間が経つとなぜかそれを手直ししてアップしようという気にはならなくなっています。また新たな気分で書きたいと思ってしまうので…。
と言うわけで、書きためておいてそれを順番にアップさせるというわけにもいかず、書きたいときに書くという気まぐれスタイルなので、更新の間が開くことになったりしますが、どうかご容赦くださいませ。
そして、あきらめずに(^^;ときどき覗いてみてくださいね。
。。。。。
先日の手塩研で、参加された先生のお一人が「『分かち合い』を授業で使っています」と言ってくださり、とても嬉しく思いました。
セレニティのセミナーでは「分かち合い」という方法で自分の思いや気持を語ることがあります。セミナーの始まりと終わりに「分かち合い」を入れると、場が共感的になって、一人ひとりが穏やかなエネルギーになることができます。
教室で先生が子ども達一人ひとりの声にゆっくり耳を傾けることができない場合でも、グループの友達同士で「分かち合い」をやると、クラスを良い雰囲気で授業に持って行くことができるのだそうです。
「分かち合い」をやると、一人ひとりの気持ちがみんなに受けとめられて、ありのままの自分でいて良いのだと安心でき、個人個人が大事にされるからなのだろうと思います。
分かち合いでやることといえば、ただ自分のことを「私メッセージ(わたしは・・・です)」で語る、それだけです。聴く方は、途中でも終わってからでも口を挟まない、ただ聴くだけです。一人ひとり順番に語っていき、他の人はただ聴くだけです。
「なあんだ、そんなことか」と思われるかもしれませんが、<聴く効果><語る効果>は絶大ですよ。
殊に、「ただ聴く」という行為がこれほど意味のあることなのか!
と驚きます。
同時に、こんなに難しいものなのか!とも。
なぜかというと、ついひとこと質問や感想を言いたくなってしまうのが私たちの日常会話ですから…。黙って聞くのはとても難しいのです。
口を挟まずに、最後まで聞いてもらえる。…とにかく、この体験は貴重です。
コミュニケーションの基本なのだろうなあと、今ではつくづく思います。←このことに、母親になりたての頃に気づいていれば、もっとよく子どもの話が聴けたのに、とも。←深く反省 (- -)
ということで、この教訓(?)を、おばあちゃん世代として次の世代に生かせたらなあと、若いパパママと赤ちゃんを目にするたび、思っているこの頃です。
キッカケはオムライス
ホントに何がキッカケになるかわかりません。
ずっと以前、ある場所であるカウンセリングをしていた時のこと。
相談に来られた若いAさん。カウンセリング中に、ふとしたことから、親戚の家で食べたオムライスの話になりました。
昔ながらの卵で包んだオムライスではなくて、バターライスの上に載せた半熟状態の卵をナイフで切って、トロ~リとご飯の上に掛ける、とろとろオムライスのほうです。
Aさん曰く、お盆に載せられ運ばれてきたのは、想像していた昔ながらのオムライスではなく、「ライス&卵焼き」だったのでビックリしたそうです。親戚のおばさんが卵をご飯にのせてナイフを入れると、「ライス&卵焼き」がオムライスに変身!その瞬間のオドロキは感動ものだったそうです。
Aさんは実にいきいきと語ってくれました。あまりに楽しげに語ってくれるので、こちらも一緒になって面白がっていたら、その後もオムライスの話題で盛り上がってしまい、気がついたら面談時間の大半を使っていました。珍しく滑らかな話しぶりのAさからは、また違った一面を見られた気がして、少しAさんの気持ちに近づけたかなあと私も嬉しい気持ちでした(もちろん、ただ漫然とオシャベリしていたわけではなく、そうした効果も期待しつつ、話してはいたのですが)
帰り際、Aさんのひとこと。
…
「考えてみると、今までで今日が一番たくさん話したような気がします。なぜだかわかりませんが…。」と首をかしげていました。
翌週の面談からAさんの会話は増えて、カウンセリングはワンステップ前に進んだ手応えがありました。
好転のキッカケは意外なところにありましたが、いつも、そのチャンスを逃さずつかむタイミングが難しいです。常にいろいろな話題についてアンテナを張っておくこと、ユーモアの余裕と、決断の勇気。…方向をどちらに振るか、何を話すか、どう質問するかなど。そうしたらすべてうまくいく、ということではもちろんないのですけれど…。
「答えはクライアント自身が持っている」(ロジャーズ)をしみじみ思いました。改めて、じっくり話を聴くこと、大事だなあと。
(プライバシーに配慮して、内容は適当に手を加えてあります)
「聴くことって大事」を痛感
セカンドオピニオンを求めて、歯医者さんに行ったときのこと。
きれいな個室の診察室、最新の設備、治療を待つ間、椅子から見える位置の液晶画面には映画まで流れている。ややあって先生が登場。
口の中を見て、幾つかの質問をされ、やりとりした後、こちらが気になっていることを話した。すると、先生が眉間にシワを寄せて言われた。
「おっしゃっている意味がわからないんですけど…。」もっと上手く説明してよ、困っちゃうなあ、という感じ(に思えたし)。で、言葉は感情を抑えている分、表情に不快感が現れている(と思えた)。
私も困ったなあと、言葉を換えて再度症状を説明してみる。
が、先生はさらに首をかしげて、
「え?どういうことを言われてるんでしょうか?」(ガーン!まったく受け付けられず、はね返される感じ。)
私はさらに困って、それでは具体例をと、再度表現を変えて説明してみると、
先生「当然そう言うことはあります。でも問題じゃありません」と言下に否定された。
私「○○・・・で、□なんですが・・・。」と、再度症状を訴えるが、
先生「問題ないです。」
私、「△△・・・ 」なおも何とかわかってもらおうと、がんばって説明する。
先生「それは別に問題じゃないです。何か気になりますか?」(気になるからこうして説明しているのに~)
そんなやりとりを何回か繰り返すうち、私は次第に言い換える言葉が見つからなくなり、虚しい気持になってくる。
そして、ついに、
「そうですか、(これ以上話しても無理ということが)わかりました。」と私。私からやっと「わかりました」という言葉が出て安心したように、ではこれで、みたいな感じで先生は出て行かれた。
先生が出て行った後(よくわからないが、ここでは先生が治療の部屋を廻るらしい)、アシスタントの女性が笑顔で言った。「何かほかに気になることはありませんか?」
。。。
はあ、。。。もう。。。。いいです。
歯医者を後にしつつ、カウンセリングの場面でクライアントの方からときどき耳にする言葉を思い出した。
「家族がわかってくれない、聴いてくれない。こっちが話し出すと、それは○○が問題だ、だからああだこうだと説明したり、説得しようとする。だから苦しい。聴いてほしいのに」と。
ご家族は早く元気になってほしいと思うあまり、解決策をあれこれ出されるのだろう。でもその前に辛さをわかってほしいのだ。聴いてほしいのだ。、
歯医者の帰り、この言葉を実感として思った。問題解決の前にまず聴いてほしいということ。それができると問題の半分くらいは解決できることさえある。
これはこの歯医者さんに限らず、私たちが他人に対して、日常何気なくやってしまっていることのように思う。
ふだんの親子の会話から、訴訟や裁判になる社会的な問題まで、最初の段階でこの「聴く」姿勢のあるかないかによって、その後の状況が大きく変わってしまう。
私もカウンセリングの場面ではいっそう肝に銘じなければと、「聴く」ことの大事さを改めて気づかされたできごとでした。(そうそう、家族に対してもね ←これが、むずかし~ ^ ^;)